サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読みました。
”JUSTICE What’s The Right Thing to Do?”というタイトルがなんでこんなへんてこな日本語タイトルになるのかよくわかりません。うーん。
大学のころ、「正義論」について学んだことを思い出します。
サンデルは最近注目されていますが、もともと現代政治哲学の分野では、いわゆる「コミュニタリアン」の一員として有名でした。本書中によく「負荷なき自我」という言葉が出てきますが、藤原保信『自由主義の再検討』(岩波書店,1993年)にサンデルの「負荷なき自我」について説明があったりします(p.173-)。
サンデルは、思想・理論を使いつつ、具体的な場面でいかに考えるべきかを論じていきます。欧米の事例がベースではありますが、我々にとってもなじみやすい事例が多く、サンデルやサンデルが紹介する思想家たちと一緒に、読者である我々も考えを進めていくことができます。サンデルが最終的にたどり着くのは、コミュニタリアン的な考え方なのですが、それも押しつけではなく、「こういう場面を考えると、こうした考え方がベストではないか?読者はどう考えるのだ?」と問いかけてくるようです。
サンデルは、善について各人がどう考えるかを表明しあい、議論しあうことでしか正義についての議論も進んでいかないとします。ちなみに「善」とは「個人の正の究極目的にかかわり、『いかに行きるべきか』という問いに対する回答として与えられるもの」(藤原,前掲,p.161)です。サンデルのあの独特な大学の講義も、そうした思想の実践であるのでしょう。「ゼミでやればいいじゃん」と私などは思いますが、昨今のサンデルの取り上げられ方を見ると、講義に対話形式を導入することで社会にインパクトを与え、対話形式で正義や善を考えていくことの重要性を社会に広めることに成功したのではないかと思います。
私としてどう考えるかですが、コミュニタリアン的な考え方の問題点として、「特定の価値観の押しつけ合いにならないのか?」という点が疑問としてあげられます。この点については、対話し議論することで押しつけ合いは回避され、よりより正義にたどり着く、というのが答えなのかもしれません。しかしこのような対話はどのように成立するものなのでしょうか。サンデルは例として挙げてないですが、たとえばイスラエルの問題。ユダヤ人とパレスチナ人との間にどのような対話が成り立つのでしょうか。こういうところにおいては、善の問題はそれぞれの民族に任せておいて、ロールズの正義の原理などを使って(この場合は聖地に対する「公正な機会均等原理」でしょうか)、ともに生活することができる権利と義務をまとめていくしかないのではないか、と考えます。
善を考える上で前提となる「善の原理」みたいなものが必要で、それを考えるためにはいったん善をおいておいて、原理的にルールを考えるというリベラリズムの手法が必要なのではないでしょうか。そういう風に考えると、リベラリズムの原理を土台として善について対話を重ねる、というのがよいのではないかと思います。
で、そんなリベラリズムの原理とは何か?
ずばり「寛容(tolerance)」でしょう。
これこそ原理ではないでしょうか。異文化、他者に対する寛容なくては対話議論も始まらないのです。
今年2冊目。