エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

 エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を読みました。
 
 
 
 大学1年生の時以来の再読かな。
 
 中世の社会が幕を閉じていく中で、近代人は「個人」として、経済的・政治的な束縛からの自由を手に入れました。自由を手に入れる一方で、安定感や帰属意識が失われていきます。個人が孤独感・無力感にさいなまれ、孤立する中で、「自由からの逃走」が始ります。「権威主義」に走って強力な指導者へ隷属したり(ファシスト国家)、他人の意見を受け入れるのみで自分自身であることをやめる「機械的画一性」のもとで暮らしていったりすることで(民主主義国家)、自由から逃げていくのです。
 では、そのような「自由からの逃走」にならないような自由はどのように成り立つのでしょうか。
 
 「個人が独立した自我として存在しながら、しかも孤独ではなく、世界や他人や自然と結びあっているような、積極的な自由の状態があるのだろうか」(p.283)
 
 フロムは以下のように答えています。
 
 「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」(p.284)※
 
 自発的な行為こそ人を外界に新しく結びつけるものだからです。芸術家や小さな子供たちの自発性、風景を新鮮に自発的に知覚するときの瞬間、愛、創造的な仕事などが具体例として挙げられています。物質的な基盤は資本主義によって創りだされました。いまや隷属から解き放たれるよう、個人が積極的な自由を行使すべき時なのです。
 
 というのが主旨。具体的に社会をどうしていくのかについては議論の余地が多くあるところでしょう。思うに、「機械的画一化」の波にさらされている現状はやすやすとは変えようがないでしょう。色々なものや情報が日々与えられ続けておりますし。しかし例えば、与えられるものや情報を、改めて自分の眼で選び直していくとか、ものや情報の中身を自分で考え直してみるとか、徐々に行動していくことは可能であるはずです。また「権威主義」に対しては疑いのまなざしを向けていくことにつきます。個人を依存させようとする何か。フロムは「魔術的な助け手」と言っていますが、神とか国家とか一つの原理とか、色々な形で現れうる「魔術的な助け手」に批判的な態度を取っていくことが必要でしょう。日々のそうした行為こそ、ファシズムへの…というと大げさですがあえて言い続けましょう、ファシズムへの防波堤になるんだと思います。
 
 あと最後に注意しておくべき点は、本書は社会心理学的な見地から心理的な問題を追及したものでありますが、
 
 「しかしナチズムの勃興と勝利に関する現象全体を分析しようとすれば、心理的条件とともに、とくに経済的政治的諸条件を取り扱わなければならない」(p.240)
 
 と書いてあります。また、今後の展望を語る箇所においては、
 
 「われわれはより新しいデモクラシーの原理、すなわちどのような人間も飢えにひんしてはならないこと、社会がそのすべての成員に責任をもたなければならないこと、またどのような人間も失業や飢餓の恐怖によって服従へとおびやかされたり、人間の誇りを失ったりしてはならないという原理を危険にさらしてはならない」(p.298)
 
 と述べられています。この点に注意が必要です。本書付録「性格と社会過程」を踏まえ、日高六郎が「訳者あとがき」で歴史を動かす要因を3つにまとめていますが、
 
 ・社会経済的なもの(マルクス)
 ・イデオロギー的なもの(ウェーバー)
 ・社会的性格(フロム)
 
 という3つの視点を持っておく必要があります。大学のころを思い出すに、フロムとかを浅はかに読んでしまうと、社会心理学的な観点のみ(しかも知ったかぶり)で議論してしまったりする傾向があります。注意が必要です。
 
 今年1冊目。
 
 ※原文は傍点。ここではアンダーラインにしました。


 

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