津島佑子『真昼へ』を読みました。
「泣き声」「春夜」「真昼へ」の3編が収録されています。
(いつもなら楽天ブックスへのリンクを張るのですが、楽天ブックスでは検索できない・・・ひどい、こんな名作が)
変な言い方になってしまいますが、息子の死から、息子が生きていることを発見します(「真昼へ」)。
息子の生は、多くの人に変化を及ぼしたのであり、「多くの人の変化の全体として、あなたは存在し続けている」わけです。
また、「あなたが関わった一連の人たちによって支えられ、息吹も与え続けているひとつの有機体があなたの実態なんだ」と定義すると、物理的にも息子は生き続けていることになるんだ、とします。
(p.165-166)
存在についてのこの考え方は興味深いです。
今年8冊目。
ヘンリ・ジェームズ『ねじの回転 デイジー・ミラー』
ヘンリ・ジェームズ『ねじの回転 デイジー・ミラー』を読みました。
アーザル・ナフィーシー 『テヘランでロリータを読む』 白水社に取り上げられていた本を読んでみる企画第一弾。
「ねじの回転」と「デイジー・ミラー」という二編が収録されています。
「デイジー・ミラー」はナフィーシーがイランの学生達に読ませた理由がよくわかる一編。米国と欧州の文化の狭間でデイジーは生き、死んでいきます。
「ねじの回転」は幽霊譚として面白い。いろいろと解釈があるようですが(本の解説参照のこと)。
行方昭夫の訳も非常によいです。オススメ。
今年7冊目。
津島佑子『火の山―山猿記(上)(下)』
津島佑子『火の山―山猿記(上)(下)』を読みました。
このような素晴らしい小説に出会えるなんて、生きていて良かった。
甲府に生まれ育った一族の戦前~戦中~戦後を描く。
一族で敗戦後に米国に渡った勇太郎という人の手記なのですが、物語が進むにつれ、勇太郎のペンを奪うかのようにして語り手が勇太郎の姉達に変わっていきます。また、その手記も勇太郎のオリジナルそのものではなく、勇太郎の孫であるパトリスの注釈や子供である由紀子による補足が行われています。語り手の複数性がこの小説のおもしろさであります。
また、過去の話・現在の話、実際に起きたこと・空想が入り乱れながら、話は進んでいきます。読んでいるうちに、ややをもすると混乱してしまいますが、それもまたこの小説を読むことのおもしろさでありましょう。
そして注目すべきは出産の喜びであります。
勇太郎の姉、桜子は結核に冒されたために、子供を産むか堕ろすかの選択を迫られます。彼女は迷わずに生むことを選びます。その場面で女達は言います。
「<子どもが産める! それで自分が死んだってうれしい! 生まれた子供が死んだってうれしい!>」(下,p.361)
生まれた子供の片眼は青く光っており、命の危険や眼の障害の可能性がありました。それを知った桜子は言います。
「へえ、そうなの。自分の眼でみてみたいなあ! サファイアみたいな眼なんて、すてきじゃん。いちどでいいから、みせてくんないかなあ。」(下,p.371)
※桜子は結核に罹っているため、子供と会うことはできない。そのため「みてみたい」と言うことになる。
長男を早くに喪った津島佑子がこのように書けるようになるまでは長い道のりがあったのではないかと思います。
母親の喜びと共に子供は生まれてくる。そのことはおそらく子供が育って大人になった後においても、彼・彼女を支える一つのよすがとなることでしょう。
この本はブックオフで見つけて、この作者の本は読んだことないし、とりあえず読んでみるか、ということで購入したものです。
こんな素晴らしい小説だったとは!本との出会いというのも本当に偶然であります。
(おー、シャレになった)
今年5,6冊目。
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』
大江健三郎『性的人間』
大江健三郎『性的人間』を読みました。
ほとばしる性(“男性の性”中心ですけど)。
川西政明は大江文学を三期に分類しています(『「死霊」から「キッチン」へ』 講談社現代新書)。本著は第一期にあたるもの。大江20代の仕事です。
TVのイメージは強くて、大江健三郎というと大江光の脇でほほえむ姿が浮かんでしまいます。しかし、初期作品群はそのイメージとはかけ離れており、なおかつ非常に魅力的です。本著には有名な「セブンティーン」も収録されています。確実なものを求める17歳の青年が右翼思想にとりつかれていく姿を描いています(第二部「政治少年死す」は文庫本未収録ですが、探せば読めます)。右傾化する世の中で、なんでそうなるのかを考えたい向きには是非オススメの一編であります。
今年2冊目。